ぼくたち・わたくしたちが住んでいる、南足柄市には
道了さんと呼ばれている大きなお寺の、大雄山最乗寺があります。
現在の神奈川県伊勢原市で生まれ、子供のころから、本を読むことや字を書くことがすきで、昔の学校のお寺さんで一生懸命勉強をして、お坊さんになることを決意しました。 鎌倉市にある、建長寺という大きなお寺でお坊さんになり、偉いお坊さんや、先輩のお坊さんからいろいろなことを教えてもらい勉強をして、現在の京都府や、石川県のお寺などで厳しい修行をして、石川県能登半島にある、總持寺という大きなお寺の一番責任の重いお坊さんになり名前も、了庵慧明禅師となりました。
了庵慧明禅師さんは、總持寺で多くのお弟子さんを育てお弟子さん達に、總持寺のことはまかせられると、57歳の時に生まれ故郷に近い小田原市の上曽我という所にある、竺土庵という小さなお寺に住み近所の人達にためになるお話をして聞かせていました。
あるとき、お坊さんが一番大切にしている、袈裟という着る物を干していたら、大きな鷲が飛んできてその袈裟をつかみ、足柄平野を飛び越えて行き明神ヶ岳の方に飛んで行きました。
了庵慧明禅師さんは、大切な袈裟を取られては大変と、お弟子さんや近所の人達と、鷲のあとを追いかけて、明神ヶ岳の林の中にくると、大きな松の木の高いところに袈裟が掛っていたが取ることができません。
そこで、了庵慧明禅師さんは、石の上で坐禅をしていたら不思議に袈裟が落ちてきて、了庵慧明禅師さんの肩にふわりとかかりました。了庵慧明禅師さんは、このお山にお寺さんを建てることを決意しました。
了庵慧明禅師さんが、能登半島の總持寺にいる時に、大きな身体の山伏の格好をした人が了庵慧明禅師和尚さんを訪ねて来て「弟子にしてください」と、お願いをしました。
弟子にして下さいときた人は名前を、相模坊道了といい、奈良県や、和歌山県の山奥で山伏として修行をして、普通の人では出来ないことを身に付けた修験者でした。
相模坊道了さんは、了庵慧明禅師和尚さんを大変尊敬していてどうしても弟子になりたくて、和歌山県の山奥から石川県の總持寺までやってきました。
了庵慧明禅師和尚さんから、お坊さんになる資格をもらい弟子になりました。弟子になった道了さんは、お坊さんとしての辛い、厳しい修行をかさね、更に修行をするために、滋賀県の大津市にある三井寺と云うお寺に入り、山伏の時の経験を生かした修行をして、たくさんのお弟子さんを育てていました。
お師匠さんの、了庵慧明禅師和尚さんが、相模国足柄にお寺を建てることを知り、弟子たちに別れをつげて、山伏の時に身につけた力を発揮して山を越え、野を走り、一日で了庵慧明禅師和尚さんのもとに駆けつけました。
道了さんはお寺を建てる総責任者として、特に土木工事では500人力の力を発揮して大活躍をしました。
◆お名前
「相模坊道了尊者」 山伏時代の名前
「妙覚道了尊者」 お坊さんの時の名前
「道了大権現」 最乗寺の守護神 道了さんは、十一面観音菩薩という、仏様が姿を変えてこの世に、現れた・・・との伝説があります。
「妙覚道了大薩埵」 明治時代以降の名前 最乗寺の境内にある、御真殿(妙覚宝殿)という建物に祀られています。中には大きな天狗さんがいます。
◆生まれた所
分かりませんが、相模坊と名乗っているので、了庵慧明禅師と同じ相模と言われています。
◆生まれた年
分かりません。
◆得意なこと
土木工事、最乗寺を建てる時、怪力を発揮して、大きな岩を砕き、大きな木を倒し、土地を平にしてお寺を建てるもとをつくりました。
◆性格
身体は大きいが、気は優しく、頭が良く、お寺の決め事を守り、修行するお坊さん達にも守らせていた。
◆実際にいたお坊さん
最乗寺の宝物館に、道了さんが書いた掛け軸が残されています。
◆鐘鼓楼
道了さんが、静岡県の神社から杖に架けてもらってきた鐘が架けてある建物。現在の鐘は三代目。
◆金剛水堂
道了さんが、お寺をつくる時に飲み水が必要なので、掘った井戸で、鉄の印鑑が出て来て、その後から水が噴き出した。
◆一擲石
別の名前を道了石という。道了さんが仕事で大きな石を運んでいたらお師匠さんに呼ばれたので、その石を投げてかけつけた石。
◆道了さん天狗化身像
道了さんが、天狗に変身した時の姿を彫った石の像 。